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あいおいの歴史

金春禅竹の能楽の秘伝書「明宿集」は、相生湾に秦河勝が漂着し化して神となったと伝えます。
 
秦氏が開発した地は、鳥羽上皇の皇后美福門院によって皇室領矢野荘になりました。矢野荘の一部は東寺に寄進され、東寺百合文書に記録が残りました。
 
江戸時代は赤穂藩領になりますが、元禄赤穂事件で赤穂藩が改易された後も、分家の旗本浅野家が若狭野三千石を統治します。
 
大正時代、鈴木商店が播磨造船を拡張し、相生は有数の造船都市になりました。

荘園都市あいおいは北部の矢野川水系と南部の相生湾に流入する水系から成り立っています。開発は矢野川水系から始まり、条里制が整備されました。


1075年、赤穂郡司秦為辰は未開発であった南部水系で久富保の開発を始めます。秦為辰は久富保を国司の藤原顕季に寄進し、顕季から孫の美福門院に継承されました。美福門院は鳥羽上皇の皇后になり、近衛天皇と八条院を産みました。保元の乱では平清盛や源義朝を指図し、後白河方を勝利に導きます。

1137年、美福門院は所領の久富保を荘園にする手続きをとります。美福門院は皇后の地位にものをいわせて北部の国衙領を取り込み、今の相生市全域を含む巨大な荘園「皇室領矢野荘」が成立しました。矢野荘は八条院に受け継がれ、大覚寺統の重要な荘園となります。

1221年の承久の変で朝廷方が敗北し、関東から海老名氏が矢野荘の地頭として赴任してきます。海老名氏は矢野荘南部の大島に本拠をおき、鶴岡八幡宮や江の島弁才天を勧請しました。1297年、下地中分を行い、1313年に領家方は後宇多上皇から東寺に寄進されました。

東寺が矢野荘の統治に乗り出した頃、悪党寺田法念や有力農民たちも農地の支配権を強化しようとしていました。南北朝の戦乱のなかでの東寺・悪党・農民の行動は東寺百合文書として伝わっています。秦河勝を祀る大避神社は東寺百合文書にたびたび登場します。

 

東寺は支配を確立するものの、農民たちは惣村を形成して団結を強め、応仁の乱を経て、1527年、東寺は矢野荘から撤退します。太閤検地によって、荘園は名実ともに消滅しますが、「矢野荘」という言葉は相生市全域を指す地名として江戸時代まで使われ続けました。

池田輝政の播磨統治を経て、1645年、矢野荘は浅野赤穂藩領になります。1671年、浅野長恒は若狭野三千石を分知されて旗本浅野家が成立しました。1701年の元禄赤穂事件で赤穂藩は改易され、矢野荘は北部が幕府領、中部が旗本浅野家、南部が森赤穂藩領となりました。

 

浅野家は若狭野に陣屋を構え、赤穂藩の文書を保存、1822年には大坂天王寺屋を札元として藩札を発行しています。赤穂藩の文書や藩札発行に関わる文書は、十年前に相次いで発見され浅野陣屋は先端的研究の舞台になっています。

明治時代、1889年、旧矢野荘に矢野村・若狭野村・那波村・相生村ができます。

1907年、相生村長唐端清太郎は地域の未来を託して小さな造船所を創立しました。第一次世界大戦中、鈴木商店が資本を投じて播磨造船所を拡張します。

 

播磨造船所の興隆とともに地域の一体化がすすみ、四つの村が合併して相生市が成立しました。1960年代、相生は世界最大の造船所を擁する工業都市に発展しますが、1987年、IHIは相生での新造船から撤退しました。

造船業の衰退とともに人口が4万人から3万人に減少しましたが、平成の大合併でも独立を保ち、近年は社会増に転じています。

 

時代はアーバン化からルーラル化へと転換しました。新幹線あいおい駅から西へ車で10分も走ると東寺百合文書の舞台となった矢野荘惣荘が広がっています。

 

21世紀、山と海と歴史に恵まれた荘園都市あいおいを創造できたら楽しいなと考えています。

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